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トニー・フェルナンデス(英:Tony FernandesまたはDatuk Seri Anthony Francis Fernandes,CBE、1964年4月30日 -)は、マレーシア人の企業家で、東南アジア地区を中心にアジア地区を網羅しているLCC(Low cost carrier)であるエアアジアの最高経営責任者(CEO)である。 ==生い立ちと経歴== 1964年4月30日、トニーはマレーシアのクアラルンプールでインドのゴア人の父親と、マラッカのポルトガル人の母親の間に生まれる。幼い頃はビジネスウーマンであった母親に連れられ、タッパーウェア社のディーラーのパーティーや集会に顔を出していた。 1977年から1983年まで、トニーは英国のエプソム・カレッジ(Epsom College)で学び、1987年にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業する。その後は短期間、ヴァージン・アトランティック航空で監査役(Auditor)として働いていた。 マレーシアに帰国後、ワーナーミュージックマレーシア社(Warner Music (Malaysia) Sdn Bhd)で、史上最も若いマネージング・ディレクターとなった。 1992年から2001年まで、トニーはワーナーミュージックグループの東南アジア地区担当副社長を務めたものの、ワーナーミュージックの親会社・タイム・ワーナーがAOLとの合併を発表後、格安航空会社設立の夢を追い、退職した。 2001年10月、トニーは、当時のマレーシアの首相マハティール・ビン・モハマドから、地元の航空会社・エアアジアの買収を進言された。当時のエアアジアは、マレーシア政府系の重工業会社DRB-ハイコムの傘下に入っており、ボーイング737-3002機を所有していたが、業績の低迷により1100万USドルの負債を抱え、経営破綻状態に陥っていた。 マハティールが同社の存続を望んでいたことから、進言を受けたトニーは貯蓄をはたき、持ち家を抵当に入れた上で、1リンギット (約30円/26セント))で買収した。 ちょうどアメリカ同時多発テロ事件の起きた直後であり、航空業界にとっては最悪の時期であった。誰もがエアアジアの経営破綻を予言し、トニーを「クレイジー」と思っていた。しかし、事業継続1年後、エアアジアはすべての負債を完済した。飛行機のリース料は40%も下がっていて、また他の航空会社が行ったレイオフにより、経験者の採用が容易であった。トニーはのちに「買収のタイミングはパーフェクトだった」と語った。 2007年には、クアラルンプールに最初の格安ホテルチェーンのチューン・ホテルズを開業させ、今後マレーシアや東南アジアを中心に店舗網を拡大する計画である。 また、2010年のF1世界選手権よりF1に参入したマレーシアのロータス・レーシング(現・ケータハムF1チーム)のチーム代表も務める。 F1の2010年シーズン開始前、同じく航空会社であるヴァージン・アトランティック航空などをもつリチャード・ブランソン(ヴァージン・レーシング)に、コンストラクターズランキングで負けたほうが勝ったチーム側の航空会社のスチュワーデスの制服を着るとの賭けを提案した。結局この賭けはブランソンの負けとなり、トニーから制服が支給された。 2010年5月に航空業界での功績が認められレジオンドヌール勲章(階級はオフィシエ)を、2011年2月には「英国とマレーシアを航空業界を通じて密接に結び付けた功績」により大英帝国勲章(第3位のコマンダー)を受勲した。 2011年8月、トニーはサッカー・イングランド・プレミアリーグのクイーンズ・パーク・レンジャーズの株式の66%を取得、事実上チームを買収した〔マレーシア人が買収 - スポーツ報知、2011年8月18日〕。 2014年7月、不振の続くF1チームに見切りをつけ、チームを売却した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トニー・フェルナンデス (実業家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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